曙日記

日々生きている、私のはなし

話さない修行

 

10年以上前に読んだ本に、

1年だか2年だか、話さなかった女性のことが書いてあった。

 

話さなかったのは、話せなくなったのではなくて、話さなくなったのだ。

 

話さないことで何が得られるのか。

 

シンプルに、だけどわかりやすく書いてあったのだけど、言葉としては、忘れてしまった。

 

だけどその女性はとても静かに柔らかく微笑んでいて、その様子がとても綺麗だった。

 

余計なものがそぎ落とされるんだったかな。

話さなくても、理解を求めようとしなくても、得られる何かに気がつくんだったかな。

いや~、忘れた。

 

だけど、今の私に必要なもののような気がするんだよな。

 

私もそうなりたい。

 

話さないでおこうと思ったことは何度もある。

 

まあ、小さな子供がいて、接客業をしていて、いろんなチームでの活動もしていて、

話さないとかありえないけど。

余分なことを話さないことはできるはず。

 

私はほおっておけば言葉や態度を端折る方なので、普段は意識して言葉をプラスしたり、伝えるように意識した方がいいのだけど、

夫に対しては別。

 

夫に対しては、どうもシンプルな感情だけでは向き合えず、夫の声を聞く時や、夫の姿を見る時は、様々なフィルターが幾重にも重なり、

そのままの姿を私は受け取れなくなっている気がする。

 

これがまた、道を間違える元になるような気がするんだよな。

 

厳密にいえば、間違える道なんてない、と思うのだけど、

あまりにも深い迷い道は、正直辛い。

きつい。

深すぎると、そのまま本気で迷って、力を失ってしまう危険性だって孕んでいる。

 

夫との間には、まだまだ深い森に迷える余地が残っている気がするので、安易に振舞うことは恐ろしいことだと思う。

冷静な時には、そう思うの。

夫を目の前にしていない時にはね。

 

それで、私が必要としているのは、夫に対する、話さない修行。

 

無視をするんじゃなくて、自分のフィルターにうつったものに振り回されて表に出さないこと。

そうすることで、不要なフィルターは少しずつ祓われていく気がするのだけど・・・。

 

今までにも、夫に余分なこと話さないと決めたことは、何度もあったのよ。

 

だけど不思議。

 

話さないと決めた日は、必ず私を試すような出来事が起きる。

話したくてウズウズするようなことが起きる。

夫に言わなきゃ気が済まないってやつ。

ほおっておけない。

スルー出来ない。

見守れない。

ぶつけずにはいられない。

 

で、やっぱり、ああだめだった、と。

 

・・・話さない修行をやった女性のことを度々思い出すのは、私に必要だからのような気がするのだけど。

 

たった一日でも、未だにできたことはない。

 

夫ただ一人に対して、話さないってだけなのに。

 

返事と挨拶くらいはします。

 

でもそんな一日を送れたことがない。

 

感情に火が付いた瞬間に、感情に支配された言葉を話すのではなく、飲み込んだらどうなるのかを知りたい。

 

ポジティブにだけ返事をしていたら、ポジティブなことばかりに囲まれていくような気がするんだけどなあ。

 

だけど様々なフィルターがかかっている時は、ポジティブとネガティブの区別もついていないかもね。

 

だから話さない修行。

言葉を操って物事や人を動かそうとするより、ものごとの中心部を見て、糸をほどいていく。

話さないことで、自分自身と語らうのかしら。

・・・ああ難しい。

 

夫一人と話さない。

 

話さないと決めると、話さずにはいられないようなことが起こる。

 

きっとすごくシンプルなことなのだろう。

今日は何か前進してほしいけど、

ほら、このそばから難しいと感じてる。

 

感じるのは自由。

怒るのも自由。

 

ただ今日は、表に出すよりも、何故そう感じるのか、なぜ怒れてくるのか、自分自身と向き合ってみたいな。

 

まあ、できるかできないかは、期待と不安、混じらないでマーブル模様の湖のようになっている。